きのうのはなし

店に来た取次さんが、
昨夜遅くテレビで観たという"いじめ"について討論していた番組について、
いろいろ愚痴っていた。
相槌を打ちながら、すこし虚しくなった。
 
"いじめ"とか"自殺"とか、それを扱う報道とか、
すべてが息苦しい。
いっちょまえにどうにかしたいなんて気になってしまうのは、
身に憶えがあるからだ。
普段は、答えなんてないほうがいいと想っているけれど、
この場合は、遠くてなかなか届かなくても、
すべてを解決してくれる答えがあればいいのにと想う。
甘ったるいけどね。
 
自殺しますって宣言したりして、
それをニュースで知って、勇気が湧いてきましたって...
死にたいなんて一度も考えたことがなくて、
むしろ死ぬのが恐くて臆病に生きてる自分にとっては、
とても衝撃的で、哀しい話だなと想った。
 
もう遠い過去の話と片づけたいけれど、
やっぱり奥底で根ざしてしまったことも確かだろうし、
今まで生きてきて屈折してたり歪んでいたり苦んできたことや、
どうにも人と親密に付き合えなかったり、上辺だけでしか接することができないのも、
小中学校での転校生として過ごした時期に経験したことが、
少なからずあるんだろう憶う。
 
しかし、すぐに親しくなれた人もできたし、
根に持つほどいじめられたとは、憶っていないけれども、
自分は独りだという疎外感や、
親しかった友人がだんだんと離れてゆくようになったことは、
当時でもけっこう辛かったような気がする。
それに、親に知られるのが嫌だったという気持も強くあったように憶う。
 
どうやってそこから逃れてきたかはもう忘れてしまったし、
当時の苦しかったことも普段は憶い出さないことが殆どなので、
こういう場合には、自分の忘れっぽい性質も役に立つのかな...と感じたりする。
ただ、"逃げてきた"ってことは確かだから、
自分のことしかわからない自分は、うまく逃げりゃあいいのにって願ったりもする。
 
今生きていても、楽しいことなんてほとんどなくて、
これはまぁその人それぞれの生き方の器用さにもよるのだろうけれど、
それにしても自殺したいほどの苦しさなんて想像がつかない。
どんなものなんだろうか。
ひどく自分の言葉や行動が薄っぺらく感じられてしまうほどにこわい。
 
朝日新聞で連載されている各界の著名人からのメッセージ、
「いじめられている君へ」と「いじめている君へ」というのがあって、
気になって目を通すようにしているんだけれど、
これをまとめて、フリーペーパーにして各学校に配れるくらいのことができたなら、
新聞ってすごいんだなぁと、他力本願に期待してみたりする。
どこかの学校の先生が、切り抜きを掲示板に毎日貼っている姿を夢想しながら、
田舎で保育士をやっている同級生の話を聞いてみたくなった。
やっぱり答がないってことは、苦しいことかもしれない。
 
書かないよりはマシだと信じて。
この断片のなにかしらが逃げる手だてになればいいなってのは、都合がよすぎるか。